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 No.241 2009年 1月 1日
若き創造者たち⑩
  Art
無名の男、高き階段を見上げて
ファッションデザイナー モトキさん

 モトキさんは、現在ソーホーのセレクトショップ、セブンNYのストアマネジャー、そして同店で販売しているブランド「1 to 3」のデザイナーとして活躍している。
 服飾が趣味だったモトキさんは、ファッション系の学校には通わず、デザインやパターン、縫製まで全てを独学で学んできた。最初はTシャツの縫製の仕方さえ分からなかった。ネットで基本的な作り方を調べたりしたが何を書いているのか分からず、自分なりに解釈しアレンジ。「教わった経験がないから、他の人がどうやってデザインし縫製しているのか知らない。専門的な教育を受けた人からすると、僕は知識の無い素人なのかもしれない。ただ学校で教わるベーシックな方法でデザインや縫製をしても新しいものはできないのではないかとも思う。僕のやり方は誰にも施しを受けてない完全な独学、分からないことがあれば自分で考え、自分で作る。だからこそ僕にしかできないデザイン、オリジナリティーがでる。独学が僕の強みであり、弱みでもある」と話す。
 2008年のコンセプトは「四角形」。全ての服が四角形をベースに作られた。一枚の長方形の布を幾通りにも着こなしができるようにデザイン。それはカーディガンにも、ドレスにも、ショールにさえも、アウター、インナーと変幻自在に様変わりする。セブンNYのオーナー、ジョセフ・クワタナさんは、「彼のデザインはシンプルさと複雑さを同時に表現している」と語るなど、独特のスタンスで築いた独創的なアイデアが受け入れられている。
 セブンには業界の第一線で活躍しているデザイナーのブランドが並ぶ。そんな強豪が揃う中、モトキさんの作品は、今シーズンほぼ完売し、顧客から発注が掛けられる程の人気を得ている。「常に1000以上の案を持ち、最大限のクリエーションを生み出している」とモトキさん。
 09年は「NYファッションウィーク中に多くの人に見てもらえるような場を設けたい。世界各国から業界人が集まる時期だし、彼らの反応を見てみたい」とデザイナーとしてのさらなる進化を目指す。www.sevennewyork.com   

写真=「四角形」をテーマに作られた作品とモトキさん(写真・本紙島津貴幸記者)

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 No.241 2009年 1月 1日
日本に国際的視野啓蒙
  Culture
 1827年1月1日、万次郎は四国の土佐の中の浜で漁師の子として生まれた。1841年、14歳の時、仲間4人と出漁中に漂流、無人島生活の後、アメリカの捕鯨船に救助される。万次郎を気に入ったホイットフィールド船長はアメリカに連れて行くことを決め、万次郎も同意。フェアヘイブンで民主主義や造船技術などを学んだ。捕鯨船で世界を巡るなどした後、10年後に鎖国下の日本に帰国。2年後の1853年、ペリー提督が黒船を率いて現れ、幕府は万次郎を直参として江戸に呼び寄せる。勝海舟、坂本龍馬、福沢諭吉、後藤象二郎らと直接・間接に交わり、英語を教える一方、アメリカの新知識を紹介し国際的視野を啓蒙、幕末から明治にかけての日本の夜明けに多大の影響を与えた。
 1860年(万延元年)、万次郎は遣米使節の通訳として勝海舟、福沢諭吉らと咸臨丸で渡米。1870年にはヨーロッパ視察の途中フェアヘイブンを訪れ、恩人・ホイットフィールド船長との再会を果たしている。船長は1886年82歳で、万次郎は1898年71歳で亡くなったが、ホイットフィールド家と中濱家の子孫による交流は4代にわたり現在も続けられている。

写真=ジョン万次郎
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 No.241 2009年 1月 1日
甲斐田雅子 Phila- Nipponica
  Culture
米国に学んだ日本の偉人
7歳で海を渡った女学生、津田梅子

 日本が近代国家の成立を余儀なくさせられたのは明治時代(1868—1912)。鎖国を解き、西洋化の波がうねりを上げて押し寄せ、封建主義社会から民主主義社会へ。文化も思想も技術も、未知の世界が一気に開けた変化の時代であった。そしてその時代、多くの勇気ある日本人がアメリカや西洋諸国を訪ね、技術や文化の習得に身を費やした。ペンシルベニア州フィラデルフィアの地を踏み、その後歴史に名を残した偉人たちは多い。
 岩倉具視を特命全権大使とし木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを副使とする「岩倉使節団」は、近代国家日本の指針を求めて明治政府が欧米諸国に派遣した公式の使節団である。政府高官や留学生を含めると100余名にも上る大規模な使節団は、1871年12月23日、横浜港を出発しサンフランシスコへ。その後アメリカ大陸を横断し東海岸の都市を視察。ヨーロッパやアジア諸国へも訪問し、帰国したのは約1年10か月後の1873年9月13日。そのうちフィラデルフィアに滞在したのは1872年7月22日から25日までである。使節団はアメリカ独立宣言が署名され、合衆国憲法が制定された州議事堂(現独立記念館)、その時計台にかかる自由の鐘、造幣局、広大な自然が広がるフェアマウント・パークなどを視察した。
 岩倉使節団の一員としてわずか7歳で海を渡った津田梅子は、18歳までの11年間をワシントンDCで過ごした。帰国後、日本での女子教育の発展の必要性を強く感じた梅子は1889年、25歳の時再びアメリカに渡る。フィラデルフィアの郊外にある名門女子大学ブリンマー大学に入学した彼女が専攻したのは生物学。そこで指導教授のモーガン教授との共同研究で「蛙の卵の発生に関する研究」という論文をまとめた。この論文は1894年、イギリスの学術雑誌『季刊マイクロスコピカル・サイエンス』第35号に掲載された。3年後に帰国した梅子は様々な努力の末、1900年に女子英学塾(現津田塾大学)を創設した。
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 No.241 2009年 1月 1日
オバマ新政権、改革への挑戦期待と不安が交錯
  Economic
日本大学国際関係学部 特任教授
北岡 和義

 2009年1月20日、大統領就任式。アメリカはバラク・フセイン・オバマという、かつてアメリカ史に登場しなかった新しいタイプの大統領により、改革への挑戦が始まる。
 日本は格差社会が問題視されている。だが、ぼくは、どうもこの「格差社会」という日本語の持つニュアンスに違和感を覚える。
 聖徳太子の時代から「和ヲモッテ尊シトナス」日本で「格差」はマイナスイメージである。人間は平等であるべき、という考えを「同じでなければならない」と多くの日本人は信じている。権利としての平等性という民主主義の大原則は、人格や待遇としての平等性とは別物だ。
 格差社会を問題にするならアメリカは日本よりはるかに格差が大きい。アメリカでも格差を問題視する人もいるだろうが、むしろ富者も貧者も格差を是認し楽しんでいるような空気がある。
 アメリカで本格的に論じるべき問題は「差別」だとぼくは思う。世界中から移民してきた人々で成り立っているアメリカで、人種差別は克服すべき最大のテーマである。
 それを突き崩したのが2008年11月4日だった。
 バラク・フセイン・オバマという46歳の政治家が第44代米国大統領に選ばれた時、『ニューヨーク・タイムズ』の一面の見出しは「オバマ、圧勝で人種の壁、崩れる」だった。「崩れた」という過去形で無かったことに編集者の微妙な意図を垣間見た。
 朝日新聞や読売新聞の見出しは「変革の時が来た」だった。ニューヨーク・タイムズはより根源的な見出しで、オバマ圧勝の歴史的評価を前面に出したのである。
 11月4日夜のシカゴ・グランドパークにおけるオバマの勝利演説はアメリカが変わった、ことを実感させた。力信仰のカウボーイ型ブッシュ政治の退場を人々は歓迎した。
 「This is your victory.(これはあなた方の勝利なのです)」。
 実に良く工夫され、分かり易いオバマのスピーチだった。胸うちふるえる感動、ジェシー・ジャクソン師の目からボロボロ涙が溢れた。コリン・パウエルもコンドリーザ・ライスもテレビのインタビューで涙ぐんだという。彼ら彼女らの滂沱の涙はアメリカ社会に流れる人種差別の壁を突き崩した投票行動への感動でなくて何だろう。
 1962年8月28日、ワシントンDC、リンカーン記念堂の前で声を振り絞って叫んだマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の「I Have a Dream」演説。あれから46年経った。アメリカ人は黒人と白人のハーフの大統領を選ぶことに成功した。しかも何人も認めざるを得ない圧倒的票差である。
 しかし…ぼくは勝利演説するオバマの前に四角の大きな透明な何かが立てられ、民衆と隔てていた写真を眺めている。よく見るとなんとそれは防弾ガラスではないか。オバマ政治は巨大な防弾ガラスとともに始まるのだ。
 ジョン・F・ケネディ(JFK)が共和党のニクソンを僅差で破った時、43歳だった。選挙で選ばれた米国史上最年少の大統領と言われた。「銀のスプーンを咥えて生まれてきた」JFKは就任直後、ピッグス湾キューバ反攻に失敗し、さらにキューバ危機に直面する。キューバのミサイル基地への空爆、武力侵攻を主張する軍幕僚を抑え、弟のロバートとあくまで外交解決を模索したJFKの苦悩を想いだしている。
 JFKはキング牧師のワシントン大行進を評価し、公民権法を議会に提出した。その翌年、JFKは暗殺された。真相は闇の中である。
 奴隷解放宣言のリンカーンもJFKもキング牧師もアメリカで黒人解放、人種差別をなくそうとした指導者はテロリストの凶弾に倒れている。オバマ政権への期待と不安が交錯している。

写真=オバマ勝利を伝える昨年11月5日付NYタイムズ紙
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 No.241 2009年 1月 1日
www.nyseikatsu.comで詳報
  生活アンテナ
●運転免許取得準備セミナー
1/3、8、10、15、17、22、24、29、30/フジ自動車学校(221 E. 43rd St, Suite 701)参加費: 無料 定員各15名(要予約)米国で自動車運転免許を取るために必要な手順や知識をわかりやすく解説。「運転免許取得ガイドブック」「筆記テスト予想問題集」を進呈。申込はTel: 212-661-0434、info@FujiDrivingSchoolNYC.com、詳細はwww.FujiDrivingSchoolNYC.com

●NY新潟県人会新年会
1/9(金)19:00-/鬼が島(43-35 W. 55th St) 参加費: 50ドル(税・サービス込み)1/4までに氏名、電話番号、メールアドレスを添えてTel: 646-420-9761、ataru@niigatasake.com(小林)宛申し込む。詳細も右記に

●針山バレエ生徒募集
毎週土曜15:00(1/10スタート)/大人のバレエABCクラス、土曜日クラス。初心者から経験者まで誰でも参加可。無理なく基礎から指導。詳細&申し込みはTel: 347-451-1801、mh-bc@hotmail.com

●リセ・ケネデイ子ども達のためのお楽しみ会
1/10(土)15:30- /紀伊国屋書店NY本店(1073 Ave of the Americas) 参加費: 無料 予約不要 詳細はTel: 212-681-7929

●NY伯友会(六甲高校OB会)
1/17(土)14:00-/松島(ミツワ隣、595 River Rd, Edgewater, NJ)参加費: 70ドル(予定)1/10までにTel: 646-468-9745、tomot1975@gmail(田崎)宛申し込む。NY支部名簿を整備中のため欠席でも連絡を。詳細も右記に

●NY愛犬サークルNew Years Party
1/18(日)14:00-17:00/Jewish Home and Hospital(120 W. 106th St)介護施設でのメンバー挨拶会&入居者とのセラピー交流パーティーを開催。参加費: 5ドル、1家族につき1スナック寄附、1人折り鶴を最低5羽。狂犬病(Rabies)予防接種とタグ、定期検診(DHPP、DHLPなど)の病院発行証明書を要提出。2日前までに入浴を済ませておく。「1/18の愛犬サークルに参加」としてaikennewyork@gmail.com宛、またはTel: 646-250-4931(岩本)で申し込む。詳細も右記に

●リセ・ケネデイ無料体験「0〜1歳」「親子教室」
2/28(土)15:00-16:00/リセ・ケネディ日本人学校(225E. 43rd St)対象年齢: 10〜23か月(先着6組まで・親子で参加)。保育者と一緒に手遊びや歌などを通して楽しく遊び、親子で簡単な工作も行う。また、子育て中の保護者同士が交流を深めることも目的としている。詳細&申し込みはTel: 212-681-7929
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 No.241 2009年 1月 1日
I LOVE NEW YORKER 17 新年の雪
  Culture
 東京は年々雪が少なくなるようだ。雪道を転ばないように用心しながら歩いたのは十年も前のような気がする。
 大晦日から降り積もった新雪を踏んで、近所の神社にお参りするのは長年つづいていることで、今年の無事を祈る。
 大晦日から元日にかけてはたちまちのうちに過ぎてゆく。除夜の鐘を聞くとき、今年も終わったかという感慨が生じる。その感慨にはいい年だったというおもいよりも後悔の思いがたぶんにまじっている。
 十日間のNY旅行から帰ってきた長女が電話をかけてきて、「パパの書いたものを読んだよ」と言った。「週刊NY生活」を手にとって、偶然に目にとまったらしい。
 私の書いたものは娘も妻もいっさい読まない。ほかのものは読むが、私のものは敬遠してきた。
 娘は私立高校の国語教師で、ボーイフレンドがいて、夏休みや冬休みを利用して、だからニューヨークにも行ってきた。私はみやげに最新のNYガイドブックを頼んだ。それも小型の、ページ数の少ないものだ。寝床で読むつもりだ。
 娘はグレニッチ・ヴィレッジの安いホテルに泊まったそうだ。なんというホテルかと訊いたのだが、「ただ泊まっただけだから」とホテルの名前を忘れていた。私へのおみやげも忘れてきた。
 それでがっかりすることもなかったが、ヴィレッジのいくつかのストリート・シーンを思い出した。カフェ・ダンテでコーヒーを飲んでいたとき、かたわらのテーブルでは若い女性が手紙らしきものをしきりに書いていた。
 私はニューヨーク・タイムズの死亡記事のページを読みながら、コーヒーのおかわりをして、旅人の気分になっていた。あれは秋のことだったろうか。
 私は朝は早い方だから、その朝は四四丁目のホテルから五番街を歩いて、ヴィレッジにやってきたのだろう。連れはまだ眠っていた。旅に出ると、私は早起きになる。NYに来ると時差呆けで、四時か五時には目がさめる。
 風呂にはいり髭を剃るうちに早くも七時だ。NYの朝めしが楽しみだということは前に書いた。
 残念ながら年末年始をNYで迎えたことはない。その機会はなんどもあったが、ニューヨークの寒さを思うと、二の足を踏んだ。
 一度ファーストクラスで乗せてもらった。だが、エコノミークラスでも疲れを覚えるということはなかった。夜行列車に十時間乗ると思えばいい。
 NYが物騒だったころによく出かけた。雑誌の取材だったが、危険な場所には近づかなかったので、取材はなにごともなく終えることができた。
 四四丁目のアルゴンクインというホテルが私は好きで、その近くの安宿に投宿したときは、このアルゴンクインで朝めしを食べた。けれども、ホテルの食事だからといって、かならずしもうまいとはかぎらない。ただ、ここで朝食をたベて、少しは豊かな気分になった。
 私が食べものにこだわるのは、たぶん池波正太郎を読んでいたからだろう。時代小説には食べものの話がよく出てくるが、池波さんほどおいしそうに書いた作家はいない。
 池波さんはついにNYをおとずれることはなかった。池波さんにとって都はパリだった。パリの名もないビストロを読者が行ってみたくなるように書いていた。
 ニューヨークの新しい年は雪なのだろうか。正月ではなかったが、朝ごはんの前にセントラル・パークの雪道を歩いていったことがある。朝日が輝いていて雪が白く光っていたけれど、おそろしく寒かった。
 雪もまた帝都とも呼ばれるNYの魅力だ。あの雪にさわってみたことがある。つまらないことだが、そういうことを不思議におぼえている。お正月はいまも好きだ。
(ときわ・しんぺい、東京都在住)

写真=Photo Ryoichi Miura
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 No.241 2009年 1月 1日
 BOOKS
NY専業主夫日記が単行本に 山崎 卓也さん
  BOOKS
 本紙で好評連載中の「NY専業主夫日記」が、このほど、出版文化社から『New York専業主夫with双子とアメリカンワイフ』というタイトルで1冊の本になって出版された。同連載はすでに69回を数えるが、この内50本を収録、新たに20編を書き下ろして、生活子育て英語表現コーナーのページなども盛り込んだ楽しい本になっている。
 著者の山崎卓也(やまざき・たかや)さんは、キャリアウーマンの妻ベッツイーさんが双子のジーニィちゃんとリオ君を出産したのに伴って7年間のサラリーマン生活に終止符を打ち出産退職。以後、ニューヨーク市北郊ホワイトプレーンズの町に住みながら、お馴染みの泣き笑い子育て生活を毎日送っている。2人のお子さんはいま9歳。幼稚園時代の様子やリトルリーグの試合風景、日本の学校への体験入学など毎回その父親の奮闘ぶりを読んでいる読者は他人の家庭のような気がしないのではないだろうか。幼稚園の送り迎え、食事の世話を専業でやっている山崎さん。「子育ての基本は、世の中に出て行って、通用する人間を作るということですよね、あわよくば成功するという方向で。アメリカでの子育てで一番難しいのは、うちの場合、日本語教育かな。本人たちは補習校でずいぶん苦労しているようで。いやなものを無理矢理通わせているのも可哀想ですけど。あとはモノも安いし、育てるのはこっちの方が楽ですね。ただ日本だと有無を言わせずに何かをやらせたりして、子供も表面上は従ってみたいなとこありますが、こっちは、小さいうちからでも内面的に本人に納得させてからやらなくてはならないです、なんでも。それに自分からモノを言わないと、周りからはそれで満足していると思われますし。国際結婚も子育ても合議性に基づいてますね。僕も杓子定規なことは嫌いだし、納得のいかないことをするのは苦手」と話す。
 関西学院大学を1984年に卒業して来米、ニューヨーク大学映画監督科在学中にコロンビア大生だったベッツイーさんと結婚。映画制作の夢も捨て難いが、いまは子育てに専念だ。「親として子供にこうなって欲しいとか、こう育てたいとか、どうなっていくかということより、自分と子供との関係がどうなっていくか、子供といつまでもいい関係を作って絆を大切にしたいという気持ちの方が強いです。子供が結婚したら孫も抱けないなんてけっこういるじゃないですか、そうはなりたくないですよ。え?母性愛に近い?いやそんなこと考えたことないですねえ。まあ、一般の父親を見る機会がないので、世間のお父さんのことはよく分からないんですけど」。山崎家の子育て奮戦日記は、現在進行形で今日も続いている。(三)
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 No.241 2009年 1月 1日
  Art

 もうずいぶん昔のことになるが、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅(原題2001:A Space Odyssey)」を見た時、21世紀は途方もないハイテク時代となり、それまでに受け継がれてきた人間の価値基準がすべて意味を持たなくなるのではないかと予想のつかない未来に大いなる畏怖の念を抱いたものだ。今、私達は21世紀を果敢に生きて、刺激的だった2008年からすんなりと新しい年2009年に移行しようとしている。確かにあの映画を見て衝撃を受けた時点から、世界は激しい変化を遂げてきた。素晴らしい方向に向かっている面も多々あるが、確実に悪くなっている面もある。   (石岡瑛子、ニューヨークにて)

石岡瑛子の仕事
北京五輪開会式
最後までハラハラ
 2008年8月8日に行われた北京オリンピックの開会式は、幸いにも「世界が今までにみたことのないものをチャン・イーモウは創って見せてくれた。それは人生に一度あるかないかのスペクタクルだった」と各方面から絶賛された。その表現を可能にしたのは、21世紀になって変化を遂げた素晴らしいテクノロジーに負うところが大きい。LED効果(発光ダイオード)をふんだんに使ったパフォーマンスの表現も、40億という巨大な観客に鮮やかな映像をとどけることが出来たのも、ハイテク時代ならではのことである。
 北京オリンピックの開会式が行われる3か月前、制作者の誰もが限りない不安を抱きながら一日一日を目一杯努力していた頃、アメリカでは大統領選に向けた民主党内の激しい候補者争いがメディアを賑わせていた。私の宿泊していたホテルでは、世界の主要チャンネルは全て入るので、CNNにチャンネルを合わせれば連日その様子を見ることが出来た。著書『Audacity of Hope(邦題:合衆国再生)』を読んで以来、強烈なオバマびいきになってしまった私は、彼が果たして大統領選に民主党代表として進出できるものか、半分の期待と半分の不安を持って成り行きを見守っていた。オバマが大統領になるような奇跡が起こるとしたらと想像を膨らますだけで、私の感情は驚くほど高揚して胸がつまった。
 オリンピックのプロジェクトで泣きたくなるような問題が起こり疲れきってホテルの部屋に戻った夜は、オバマの本を再び読みなおし、そこからポジティブな精神を取り戻して眠りにつくことが出来た。スケールの次元がまるで違うが、2008年という年は、オバマにとっても私にとっても忘れられない年として人生の記録に納まることは間違いない。それにしてもオバマが大統領になるという奇跡を起こしたアメリカ人の行動力に大いなる敬意を払いながら2009年を迎えるということはなんとエキサイティングなことだろう。
 開会式の一か月前、私は世界中の知人、友人150人にEメールを送った。内容はもちろんオリンピックの開会式をテレビで見て私と共に祝ってほしいというお願いのようなものだった。しかし、開会式の3週間前の7月半ばに突如として大きな変更が政府のトップからおりてきて全てのチームはすさまじいパニックに陥った。私は知人、友人にお願いのメールを送ったことを深く後悔した。もし大失敗したら皆はテレビの前で大きな溜息をつき、失望と非難の嵐が沸き起こるだろう。それらは私の致命傷となりかねないからだ。

一夜の夢に賭けた
 総監督のチャン・イーモウは後になって告白している。8月8日開会式当日の昼間、成功祈願のためにお寺へ行った、その時の正直な気持は、完成したパフォーマンスが本番で60点とれれば合格としようというものだったそうだ。政府から数々の変更が命令という形で下り、その修正に我々はわずか2週間の時間しか与えられなかった。しかし全員が不眠不休で努力した結果、想像を超えた成果が上がり、8月5日の最後のリハーサルを終えた時には不安は一気に希望に変わり、希望は自信となって全員の心に定着した。その勢いを失うことなく持ち込んだ当日の見事な結果により世界中の観客を興奮の渦の中に巻き込むことに成功し、全世界からの評価はチャン・イーモウの予想を遥かに上まわった。8月8日の開会式を私はスタッフとともにスタジオ「鳥の巣」で見ていたが、時々涙で目が曇って先が見えなくなった。それは寝ずで働いた職人たちや不可能な表現を可能にした若いパフォーマー達の努力への熱い想いだった。
 今、落ちついて考えてみれば、アメリカの独立宣言は1776年でその年中国はすでに清朝の半ばにあたるわけだからちょっと比較しただけでも中国の人々が蓄えてきた文化の成熟度が桁外れに違うことは明らかだ。その上にチャン・イーモウのようなトップクラスの創り手がオリンピック開会式という機会の創造を引き受けるとなれば、世界をWOW!と言わせる表現が可能になることは十分に理解できる。それにしてもオリンピックが開かれる以前、世界の中国に対する理解はあまりにも遅れていたような気がする。私も参加を要請されるまでは、無理解な人間の一人だった。
 アメリカの映画評論家として絶大な影響力を持つロジャー・エバートは、開会式の次の日の8月9日シカゴ・サンタイムズ紙に「チャン・イーモウの金メダル」と題して讃辞をというよりもほめ殺しに近い評を発表した。その記事を読めば一年にわたる私の難行苦行の旅は、完全にペイオフできたと言えるかもしれない。
 コスチュームデザインを担当した最新作映画「The Fall(邦題:落下の王国)」のプロモーションのため、私は開会式を終えてすぐに北京から東京に飛び、監督のターセムと合流した。特別試写会の舞台挨拶の時に映画の話だけでなくオリンピックに関する話もしたが、私はつい苦労話が次々と口をついて出てしまうので颯爽としたデザイナーという印象からはほど遠かった。そのマイナスを救済してくれたのはターセムのスピーチだった。「北京オリンピックの開会式は、開会式という概念をはるかに超越した開会式だった。見ていて顎が何度も外れ、それを拾ってつけるのに苦労したほどだ。ジュリアス・シーザーがクレオパトラを伴ってローマに凱旋してきた時以来の素晴らしい出来事だったね」とぞくぞくするほどの嬉しい、誇張した語り口で観客に向かって感想を語ってくれた。
 現実には中国政府は7年、チャン・イーモウは4年、私は丸々1年の時間を費やし、たった一晩の開会式のために汗を流し準備を重ねた。そしてそれは「一夜の夢」のようにあっという間に消えてしまった。考えようによっては、クリエイティヴチームの全員が一晩用の仕事であることを意識せず、創造にのめりこんでいたからこそ充実した表現が実現したのかもしれない。チームには数か月、いや数年のロングランを展開してもおかしくない内容を創ろうとする気迫に満ちていた。

山のようなEメール
 ちょっとしつこくなるかもしれないが、ロジャー・エバートの評へ感想を寄せた匿名のEメールを見つけたので紹介したい。それはパフォーマンスの中でも特筆に値する場面についての観察を鮮やかに述べてくれている。「最も印象的だったのは、蛍光色の緑のコスチュームを着た大勢のパフォーマー達が同心円を創り、それが外に向かって大きく開かれていく時にコスチュームは発光して全身が無数の星で包まれたように変化する情景だ。そして動きながら巨大な光の『鳩』をスタジアム一杯に創りだす。その後その形は次第に変形しながら今度は人間の『鳥の巣』を創ったのである。これほど極限まで磨かれた表現を私は今までに見たことがない」。
 このように開会式の結果に対しては当事者の想像を超えるリアクションが世界から津波のように起こって準備に関わった全ての人々の努力の日々は最終的に報われた。2008年8月8日は私の人生の中でも特別に輝かしいオーラを放った一日として記憶に刻まれていくだろう。
 知人、友人、家族からの熱気あふれるEメールが8月9日には私のラップトップに次々と飛び込んできてまたとない一夜を世界中の人々と分かち合えたことを確認した。その祝いのEメールの中にブロードウェイの新作ミュージカルを一緒に創る演出家のジュリー・テイモアからの一本があり、特に私を喜ばせた。
 私はブロードウェイのプロジェクトを今までに二つ手がけている。演劇の「M・バタフライ」とイリュージョンの「デビッド・カッパーフィールドの夢と悪夢」で、美術監督として両方ともセットとコスチュームを手がけた。しかし、ブロードウェイの花形プロジェクトであるミュージカルだけは手がけたことがない。新しい年私はこれまでの全ての経験を生かして本格的ミュージカルに挑戦する。主題は「スパイダーマン」。脚本はコミックブックのスパイダーマンとも映画のスパイダーマンとも異なった独特のストーリーを描き出し、舞台表現でなくては決して味わうことのできない魅力をふんだんにつめ込んだ作品を制作する。
 ミュージカル「ライオンキング」の演出で、ブロードウェイ史上まれなる興行収益を上げているジュリー・テイモアが演出を担当し、超有名なロックバンドU2のボノが音楽を担当する。これから2009年10月のオープンを目指して全員の能力を結集していく。その舞台はいったいどういうものになるのだろうか。オバマをリーダーとして国の再生を目指すアメリカのエネルギーを浴びながら新しい時代の新しいミュージカルはどのように完成していくのか。これから自信と不安が隣り合わせに重なった時間が続いていく。
 北京オリンピックの開会式とは全くアングルの異なったキャンバスでの私の創造の旅が再び始まろうとしている。

 石岡瑛子(いしおかえいこ)マルチディシプリナリーデザイナー。映画や舞台のセットやコスチュームその他様々なクリエイティヴワークで世界的に高い評価を得ている。主な受章にアカデミー賞、カンヌ映画祭芸術貢献賞、ニューヨーク批評家協会賞他多数。2008年、北京オリンピック開会式のコスチュームディレクターを担当。2009年、ブロードウェイミュージカル「スパイダーマン」のコスチュームデザインを担当。現在ニューヨークを拠点に活動を続けている。

写真=TADAHIKO NAGATA (永田忠彦)
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 No.241 2009年 1月 1日
おあずけの「死ぬまでに読みたい本」横尾忠則
  Culture
 ある新聞で「死ぬまでに読みたい本」というコメントの依頼があった。死ぬまでに読みたい本ということになると、内容が易しいとか、薄っぺらな本でないことは確かである。その本は今までに読まなかったわけだから、よほどの覚悟を必要とするに違いない。読みたいと思いながら中々機会がなかったのだ。時間的にも精神的にもまたタイミング的にも、このような条件が揃わなかったために今日まで読めなかったのである。
 さあ、ところでそんな本があるだろうかと考えてみた。多分、「忙しい」という口実で手をつけなかった本に違いない。忙しくても読む本の種類に実用書などがある。「死ぬまでに読みたい本」ということになると、じっくり腰をすえて時間をかける必要がある。この手の本はきっと手強い内容にきまっている。ぼくの場合を考えてみよう。
 多分、古典か歴史にちなんだ本になりそうだ。どちらもニガ手であるが読む必要があるように思う。現代小説はほとんど読まないが、かといって古典をよく読むわけではない。そりゃ少しは読むがまだまだ重要な古典は内外共に沢山残っている。歴史にもうといのでこちらも読まなければならない。本業の美術の歴史だって穴ボコだらけの読み方でちゃんと通して読んだことがない。日本史も世界史も同様だ。聖書は一通り読んだが、仏教や哲学となると一部かじった程度で身についていない。
 自分に残された時間を考えると本当は本など読んでおれないというのが現状である。まだまだ絵を描き尽くしていないし、また始めたばかりの小説ももう少し書き続けたい。その空時間を全部読書に当てるのも無理だ。さあ困った、困ったというしかない。
 そこでどうしてもこの一冊は死ぬまでに読まなければならないという、とって置きの本が実はぼくにはある。それは古典でも名作文学でもない、中学の頃猛烈に愛読していた南洋一郎の少年物の密林冒険小説「バルーバの冒険」である。この小説は全四巻出版されたところで出版社が倒産して最終巻の五巻が未完のまま終わってしまっていた。ぼくの少年時代を最も熱く、血湧き肉踊らせてくれた本だった。それが事もあろうに四十数年後に別の出版社から南洋一郎全集の中に「バルーバの冒険」第五巻が集録されたのだった。この本が出ると同時にぼくは踊るような気持で本屋に駆けた。そして当然一晩で読んでしまったといいたいところだが、実は買った時点から20年が経っているというのにまだ読んでいないのである。
 これは一体どういうことかというと、ぼくの人格を形成した非常に貴重な本で、ぼくの創作の中枢を成す少年の視線をぼくに植えつけてくれた哲学の書なのである。ところがもしその本を読んでしまって、ぼくの中で「バルーバの冒険」が完了してしまったら、ぼくの中の少年の視線の灯が消えてしまうのじゃないかという恐れから、まだ読んでいないのだ。だからこの本はぼくの死がギリギリに迫った時までおあずけなのである。
(よこお・ただのり、美術家、東京都在住)
www.tadanoriyokoo.com

写真=幽閉された愛
1994年キャンバスにアクリル絵具 1939×1303mm
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 No.241 2009年 1月 1日
松本紘宇
  Culture
 1960年代のマンハッタンに「東西の両横綱」と称された2軒の日本食レストランがあった。
 東の横綱はイースト52丁目で1963年の創業、現在も隆盛を続けるレストラン「日本」。
 そして西の横綱が、当時「NYの女傑」と言われたマダム斉藤こと、斉藤もとさんの経営するレストラン「斉藤」で、こちらはウエスト52丁目にあったため、同じ52丁目の5番街をはさんで東西に、また両者が当時の日本食レストランの中では店構えから格式まで抜きん出ていたため、東西の両横綱と呼ばれたのだった。
 なお「斉藤」の創業は1956年で、6番街55丁目にあった店を63年になって52丁目に移転したのだった。ついでながら、私は70年から2年間、「日本」の仕入係やアシスタントマネージャーとして働き、オーナーの倉岡信欣社長から日本食レストランの経営がいかなるものかを教えて貰った。また後に独立して魚の卸商を営んでいた時には、マダム斉藤に沢山魚を買って貰ったし、後述するように迷惑をかけたりいろいろお世話になった。このように当時の日本食レストランを代表する2店と大きな関わりを持ったのは実に幸運なことであった。
 さて、この西の横綱「斉藤」が火事で丸焼けになったのは69年のことだった。翌70年、「斉藤」は2度目の移転でイースト49丁目、サックス・フィフス・アベニューの向かいにオープンした。前置きが長くなってしまったが、ここからがこの物語の始まりである。
 1965年、日本の対米輸出が初めて輸入を上回った。以来日本の経済界は、「国際化」を合言葉に競うようにしてアメリカに進出した。NYにも日本企業進出の波が押し寄せ、また同時に日本食レストランも続々と進出した。
 70年、「斉藤」が再開した年に、NYの日本食レストランの数は50〜60店であった。それが74年になると150軒と3倍にもなっていた。この74年、48丁目界隈には「日本」や「斉藤」をしのぐ豪華な大型店が開業している。2月には48丁目に「新橋」が、そして5月にはウォルドルフ・アストリア・ホテルの44丁目側に「稲菊」がオープンしたのである。特にこの「稲菊」の外装は日本の趣を模して白壁に石垣、入口は鋲を打った扉の巨大な門で人目を引いたが、「城」という点ではやはりこの年の11月にウォール街の近くにオープンした「江戸ガーデン」が、ビル全体を城の形にして、あたりの超高層ビルの谷間で異彩を放った。
 74年はまた日本からラーメンの大チェーン「ドサンコ」が進出してきた年で、マディソン街48丁目にアメリカ1号店を開いた。チェーン総帥の青池保社長が自ら長期出張してきて、毎年店頭で餃子を包む実演をしていた。最盛期にはマンハッタンに11店舗、フィラデルフィアに1店舗と、計12店を展開した。現在NYはラーメンブームと言われているが、これは第2次で、第1次はこのドサンコが巻き起したものである。
 確かこの74年の末、(もしかしたら75年初めかもしれない)「斉藤」がまたまた移転した。今度の店は1番街46丁目、国連のすぐ前である。もともとマダム斉藤はこの国連前の店で、国連にやってくる賓客を相手にしようというのが心づもりだったようで、44丁目の店はそこに移転するまでの仮営業と思っていたフシがある。この開店披露のパーティーは2日に分けて行われるというそれは豪華なもので、この新店のために大阪の「つるや」から招かれた今中さんが腕をふるった。私も魚を届けがてらパーティーに出席して今中さんの御馳走を頂いたのだが、この日がいつだったかを思い出せないのは申し訳ない。
 そして75年、私の「竹寿司」が開店した。場所は48丁目、もと「斉藤」とはちょうど背中合わせになる。
 NY最初の「すし専門店」だった。もちろんほかの日本食レストランもすしを出していたが、メニューが「すし」だけという店はなかった。これは当時NY一、二とうたわれたすしの板前、上津さんの協力を得たことが大きい。上津さんもマダム斉藤に招かれて、49丁目時代の「斉藤」で評判を得ていたが、「斉藤」との契約が終ったときだったので、私の店で働いてくれることになったのだ。
 この年には47丁目に「淀」がオープンした。阿部さんと三屋さんの共同経営だったが、三屋さんは85年に独立して46丁目に「浪花」を開店している。
 76年には「竹寿司」の並びにやはりすしを主体とする「初花」がオープンした。競合するかと思ったら、このあたりに来れば美味しいすしが食べられると、お互いに繁盛した。
 その「初花」の隣に、私が2店目になるカウンター割烹の「綱元」をオープンしたのもこの年だった。あの「つるや」出身の今中さんがマダム斉藤とケンカしたとかで店を辞めていたのを幸い、私がこの店に引っ張ったのだ。にもかかわらず、マダム斉藤は「綱元」の開店に当り、お祝いだと言って49丁目時代に使っていた、それは立派な椅子を10数脚贈ってくれた。ゆったりと座れるのでカウンター席にはピッタリで大変重宝した。上津さんにしろ、今中さんにしろ、マダムには何の断りもなくうちの店で働いてもらうことになったのだが、マダムからこのことに関して一切いやみなどは言われなかった。
 当時日本領事館は48丁目の「新橋」と同じビルにあった。それもあってこの48丁目には日本人が集まるようになったのだが、ここに目をつけたのが「サクラ商事」の社長、満仲恒子さん、通称ネコさんで、ちょうど「竹寿司」と「初花」の間のビルの2階にギフトショップをオープンした。これも76年のことであるが、目論見どおり大はやりした。
 「ウチが今あるのは、竹寿司さんのお陰よ」と、まあ社交辞令だがネコさんは嬉しいことを言ってくれる。そんなわけでネコさんとはずっと親しくしているのだが、最近面白い話を聞かせてくれた。「あの当時、私はキッシンジャーと話しをしたことがあるのよ」。
 というのは、同じ階のサクラ商事の向かいに理容店があって、ここにキッシンジャーがお忍びで調髪にやって来たというのだ。もちろんキッシンジャーの本拠地はワシントンだが、サットン・プレイスにアパートか何かを持っていて、国連に出席するときはここに泊り、お気に入りのバーバーに通ったというわけである。護衛が1人ついていたが、彼は店の外で待っていた。で、ネコさんが、護衛のつくような人は一体誰だろうと思っていたら、キッシンジャーが出てきた。以来彼と言葉を交わすようになったのだそうである。
 さて翌77年、私は3店目の「車すし」を開いた。これは上津さんとの共同経営で、場所は48丁目の「ドサンコ」の2階。「竹寿司」からは近かったが、「竹寿司」は大衆路線、「車すし」は高級路線という方式をとったので、先の「初花」と同様、競合することはなかった。そればかりか、ワンブロックの中にすし屋が3軒並んだため、ますます人が集まるようになった。サクラ商事も儲かったはずである。
 ところが81年になって、後年ネコさんが「今考えても口惜しいわよ」と言う出来事が起った。
 「初花」の隣のビル、つまりサクラ商事が入っているビルから「竹寿司」のビルにかけて、さらに49丁目側も同じ範囲にある数棟のビルを取り壊し、48丁目と49丁目にまたがる巨大なビルを建てる計画が持ち上がったのである。テキサスの石田氏が新ビルのオーナーだという。私はこの情報をオカダ・インターナショナルの岡田社長から得ていたのだが、ネコさんは知らなかったらしい。
 「ともかく何がなんだかわからず、雀の涙ほどの立退料を貰って追い出されたのよ」。
 こういうことだ。新ビルのオーナーは、テナントのいない空ビルなら高く買ってくれるが、テナントが居座っているビルだと安く叩かれる。それは今度はビルを買った人が居座りを追い出すのに手を焼くからだ。
 「ウチのビルの大家は、われわれテナントを全部追い出してたんまり儲けたはずよ。それを知っていたら居座ってやったのに。まったくあの大家ときたら儲けを一人占めして本当に口惜しいったらありゃしない。それにひきかえ、オタクは随分大金を得たって噂があるけど」とネコさん。
 私の方は最初ビルの大家は20万ドルで出てくれと言ってきた。だが移転して新しいレストランを作るにはこの位の金ではとても無理なので即座に断った。すると25万ドルになったがこれも断った。第一、リースがまだ8年近くも残っているのだ。このリースは大家が変わっても生き続ける。結局大家は「竹寿司」を残したまま、ビルを新ビルのオーナーに売ってしまった。それで今度は新ビルの弁護士がやって来た。「一体いくら払えば立退いて貰えるんですか?」。
 もし「竹寿司」が立退きを承知しなければ、新ビルのオーナーは工事中の休業補償を払わなければならないし、新ビルに旧家賃のまま入居させねばならない。これは生半可な費用ではない。何度かの交渉の末、最終的な結論が出た。「ネットで100万ドル。すなわちリースの売却益の税金を30万ドルとして、税額130万ドルを支払う」
 で、サクラ商事はイースト44丁目のビル3階に移り、「竹寿司」はこのサクラ商事から近いヴァンダービルト街の45丁目に移った。なおこの新居に100万ドルは使いきれなかったので、残った金で「ワシントン竹寿司」を作った。
 われわれが去った跡は、「タワー49」という高層ビルに生れ変わった。1階は48丁目から49丁目に通り抜けられるようになっている。
 ところでこの「タワー49」は後に日本人と深い関わりを持つことになる。
 86年、愛知県にある加藤化学という会社がこのビルを買い取ったのである。同じ愛知県のトヨタ同様、質実を旨とするようで、加藤化学はこれをあまり宣伝しないため、知っている人は少ないようだ。
 そして後述するが、新生「新橋」がこのビルの1階に入居している。
 「タワー49」が加藤化学の所有となった翌年の87年、49丁目のこのビルの前に日本から「寿司田」が進出してきて1号店を開いた。
 「寿司田」はやがてウエスト49丁目に2号店のロックフェラー店を開くが、ここはかつてドサンコの支店があったところだ。青池社長が48丁目本店の2階の「車すし」の隆盛ぶりを見て「自分もすしを」と、日本から「陣屋」というすし屋をよび、ラーメン店に併設していた。
 90年代に入ると、94年に47丁目の「淀」の隣に「かつ浜」がオープンした。これは89年にウエスト55丁目にラーメンの「めんちゃんこ亭」を開業したヨネハマグループの新業態の店である。しかしながらヨネハマグループは05年の末に、NYのグループ5店を松屋フーズに譲渡してNYからは撤退した。それで現在「かつ浜」は松屋フーズの傘下に入っているが、店名はそのままで営業を続けている。
 96年になって、上津さんの「車すし」がこの「かつ浜」の隣に帰って来た。上津さんは84年に48丁目のドサンコの2階から独立してウエスト56丁目に今度は単独で自分の店を開いていたのだ。それがかつての古巣の近くに移転してきたので「帰って来た」と言ったわけだが、06年にはここで「創業30周年」のお祝いをしている。
 時代はいよいよ「新世紀」となる。その幕開けの2000年、老舗「新橋」が店を閉じた(ついでながら「ヴァンダービルト竹寿司」もこの年にクローズした)。
 で、「新橋」のあとにオープンしたのが「HARU」である。鉄板焼きで大成功を収めたベニハナがいよいよすし業界にも乗り出したのだが、アムステルダム街にあった「HARU」をそのまま居抜きで買い取るやすぐさまチェーン展開を図り、この48丁目の「パーク店」は3号店になる。このすしチェーンもまた大当り、08年早々にはウォール街7号店をオープンした。
 が、総帥ロッキー青木さんが08年7月、68歳でこの世を去った。
 「本当に気のやさしいいい人だったわよ。日系人会の寄付を頼みに行くと、いつでも気軽に引き受けてくれて、毎回それは多額のお金を寄付してくれたわ。偲ぶ会には私も出席したけど、普通日本人のそういう会は日本人ばかりでしょ。でもロッキーさんの時は7割方がアメリカ人だったのよ。やはりロッキーさんは日本人の枠をこえて活躍した人なのよ。惜しい人をなくしたわね」とネコさんがしみじみ語る。
 書き遅れたが、マダム斉藤は国連前の「斉藤」を手放して日本に戻り、麹町にもっていた料亭「さいとう」の経営に当たったが、89年83才の生涯を閉じている。
 さて「新橋」のあとは「HARU」になったが、その「新橋」が07年になって復活した。場所が何とかつての「竹寿司」やサクラ商事があった「タワー49」である。そしてこの新店の指揮をとるのが、かつての「新橋」の女将、細田婦美子さんの長男の友成社長だ。「淀」も最近店を閉めた。が、阿部社長の息子さんが44丁目のサクラ商事の隣のビルで、「梓」を経営している。
 マンハッタンの日本食レストランもいよいよ2代目の時代になったのだ(いろいろ昔話を聞かせてくれたネコさんに感謝します)。

松本紘宇 =まつもと・ひろたか=1942年東京生まれ。東京大学農学部卒業後、サッポロビールに勤務。69年退社後ニューヨークに渡り、レストランの仕入れ魚卸商などに従事、75年「竹寿司」を開店。現在ベルギー竹寿司を経営するかたわら食文化研究家として世界各地を取材している。著書に『ニューヨーク竹寿司物語』(朝日新聞社刊)など多数。
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 No.241 2009年 1月 1日
新しい年になりました
  Culture
 新年おめでとうございます。今年はどのような年になるのでしょうか。この年の七月にぼくは六十七歳になります。はじめてニューヨークの土を踏んだのが二十七歳ですから、それから四〇年も経つことになりますね。
 ぼくはニューヨークはマンハッタンの中しか知りません。ブルックリンも、ブロンクスも、スタッテンアイランドも、行くことは行きましたがほとんどその日のうちにマンハッタンへと帰っています。
 ここ数年ニューヨークには行っていません。5年ほど前マンハッタンを歩いて思ったのですが随分変わりましたね。マジソンアベニューや42ストリートも、ニューヨークらしい店がすっかり消えていてちょっと寂しい思いでした。何しろぼくがいたのは一九六九年と一九七〇年ですから。
 東京の新年ですが、ぼくは一年中でほんとに休むのは正月の3日くらいですので、のんびりと過ごします。初詣は浅草の浅草寺とか、深川の富岡八幡宮とか、亀戸の亀戸天神とか、それぞれ気分で出かけますが、自宅に一番近い明治神宮と、いつも原稿を書くための鎌倉山の家からの鶴ヶ岡八幡宮へは一度も初詣したことはありません。テレビなどで見ると、両方ともすごい人出ですね。日本人って、こんなにも信心深かったのかなあとつくづく驚かされます。
 正月はお節料理を食べてお屠蘇を飲んで、もちろん雑煮もいただきますが、ぼくはどちらかというと正月料理は苦手で、やたらにカレーとかラーメンを食べたくなります。
 南房総市(千葉県)の千倉にいた子供の頃は、年末の餅搗きからはじまって、母と門松を立て、正月の飾りを作りました。正月の遊びで好きなのは凧あげで、いつも自分で作っていました。竹を削ってひごを作り、紙は障子紙を使いました。凧に描く絵は得意中の得意で、友だちにもよく描いてあげたりしていました。冬の青空にあがった凧には、強い糸の引きがあって、釣りをしていて魚がかかった時にちょっと似ていました。今は凧あげをするにも場所がなく、よく旅をしていて車窓から電柱のない平野を見ると、ああ、ここで凧あげをしたいなあ、などと思ったりします。
 新年の抱負は?などと雑誌や新聞で訊かれますが、特にありません。今までもそうであったように、自然のままで行きたいと思っています。まずは健康であることでしょう。ニューヨークの皆様、この年がいい年でありますようお祈りしております。(あんざい・みずまる、イラストレーター、東京都在住)
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 No.241 2009年 1月 1日
プロフィギュアスケーター佐藤 有香さん
  Entertainment
 技術面だけでなく、表現力。衣装や音楽も見所の一つであるフィギュアスケート。ここ米国では、寒くて暗い冬に光を注ぐ、世代を超えた国民的エンタテイメントとして人気が高い。
 代表的なアイススケートショーの一つが「スターズ・オン・アイス」。1986年に金メダリストのスコット・ハミルトンが発起した同ショーは、その名の通り、オリンピックメダリストや世界選手権王者などトップレベルのプロ選手たちで構成され、米国、カナダ、日本の数十都市で氷の上の華やか舞台を魅せる。現在唯一の日本人女子ソロ選手として活躍しているのが佐藤有香さんだ。
 両親とも冬季オリンピック日本代表選手というスケート一家に生まれた佐藤さんは、15歳の頃から数々の選手権で優勝または入賞し、92年のアルベービルオリンピックには、伊藤みどりと共に女子シングルスの代表入りを果たした。94年のリレハンメルオリンピックでは5位と健闘、同年の世界選手権では6つのトリプルジャンプを成功させた上に芸術面でも高得点を獲得し1位に輝いた。
 同時に佐藤さんのスケート人生に転機が訪れた。「小さい頃の夢を叶えるいい時期だ」。佐藤さんがスケーターになろうと決めたきっかけは、子供の頃、米国に住む両親の友人から送られてくる「スターズ・オン・アイス」の映像だった。「いつかこの華やかな舞台に立ちたい」という佐藤さんに父親は言った。「世界チャンピオンになれば出られるよ」。
 プロに転身したのは96年、21歳の時。単身来米し、プロ選手権全盛期の数々の世界大会で連勝。 米国では自分の特徴をどれだけ表現できるかが勝負。夢に向って努力を重ね、今年で同ショーの出演は7シーズン目を迎える。シーズン中5か月間
ともにツアーを廻る仲間たちとの生活、氷の上で精一杯表現できる喜びは何ものにも代え難い。その「佐藤スマイル」が観客をも幸せにする。
 「いつまでできるか分からないが、できるだけ多くの人に自分のパフォーマンスを観てもらいたい。文化の壁を乗り越えて、米国で頑張る日本人コミュニティーを少しでも元気づけたい」。

スターズ・オン・アイスを見よう!
佐藤さんと交流の企画も
 「週刊NY生活」読者に朗報—佐藤選手と交流できる特別企画。
 スターズ・オン・アイスの公演当日、開演前の会場で、佐藤有香さんがQ&A、サイン・写真会、ショー直前の練習風景見学など盛りだくさんの内容の交流会を提供します。個人、家族はもちろん、学校や団体単位でも応募を。問合せはsoi-tokubetsu@imgworld.
comまで。

写真=スターズ・オン・アイスの華麗な氷上の演技で観客を魅了する佐藤有香さん
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 No.241 2009年 1月 1日
マンハッタンのお正月
  Fashion
 初詣に成人式、1月の日本に見る若い女性たちの艶やかな振り袖姿は、寒さの中にも新春の陽気を感じさせるもの。初々しさに、思わず周りからは笑顔がこぼれる。
 振り袖を着られるのは、一般的に若い未婚女性の特権とされる。カジュアル服の本場米国に住んでいると、ジーンズにスニーカーなど楽な格好の日が多くなりがちだが、新年を迎えるにあたって女性心を改めようと、日米女性3人が、日本和装で着付けの講師を務める永利紀美子さんのもとに集まった。
 書道家の若原彩子さんは、展示会のレセプションなどでも着物を着る機会があるが、振り袖は成人式以来だと言う。全面に薄く金通しを施した黒地に、輪郭を金糸で刺繍をした桜の総柄の振り袖は、目頭がきりっと上がった若原さんの粋な雰囲気によく似合う。
 在米7年になる佐久間アイム・コリータさんが選んだのは、紗綾形地紋入りの薄いピンク地に、松や亀甲、霧、青海波などの古典柄を鹿の子柄で仕切ったもの。緑の帯揚げでアクセントを付け、メキシコ人の祖父を持つ佐久間さんの特徴的な瞳と調和した。
 本紙のコラム「カルチャー交差点」でお馴染みのヘザー・ハーランさんは、紅梅を思わせる伝統的な赤に、桜や川に散る花びらの様子を絞り柄で表現した振り袖。日本通のハーランさんは、着物は何着か持っているが、振り袖を着るのは今回が初めて。「着物を着ると、振る舞いが変ってくる」と話す。
 39年目というベテラン永利さんの独自の着付けは、「絶対に着崩れず、苦しくない」が特徴。着付けをしながらその人の雰囲気を読み取り、結びながら考えるという帯結びはまさに芸術作品。若原さんには、宮中の結納の際にも用いられるという伝統的な「ふくら雀」。佐久間さんの「宝結び」には、袋の部分にひだを寄せて豊かさを表現し、ハーランさんの「一文字結び」には左右のリボン部分に華やかさを加えるなど、柔軟にオリジナル性を施す。帯揚げや帯締めの結び方にも、それぞれ違う工夫がなされている。
 「できあがる表情がそれぞれ違う、というのが日本の着物文化の良さ。正統派の着物文化を伝えたい」と言う永利さん。着物を選ぶときは「着て背景的にならないものを。自分に似合う色、柄を知ることが大事」。
(浜崎都記者、写真・三浦良一)

写真=ブロードウエーを見下ろす日本和装の和室で振り袖姿が完成!
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 No.241 2009年 1月 1日
Valkyrie 英雄たちへの賛歌
  シネマ試写室
 ナチス・ドイツ独裁者ヒトラーへの暗殺計画は40以上あったといわれるが本作品は最も歴史に残る1944年7月20日の暗殺未遂事件を描く。脚本家クリストファー・マックァリーによるとリサーチは膨大な書類と実際のインタビューに基づき進められ、作品は史実にほぼ近い線で描かれているという。もっとも当初は戦争、ドイツ、暗殺というかなり暗い題材のため興行的ヒットは考えず比較的こじんまりした作品レベルを予定していたが、トム・クルーズが興味を示したことで制作費1億ドル規模となり、まさに「山が動いた」感じがしたという。 
 ドイツ軍人が全てヒトラーを崇拝していたわけではない。ヒトラーがドイツを含めた欧州を破滅に導くと憂いていた高官は少なくない。オルブリヒト陸軍大将(ビル・ナイ)、ベック陸軍参謀総長(テレンス・スタンプ)、トレスコウ陸軍少尉(ケネス・ブレナン)らはグループを組み何度も暗殺計画を立てた。トレスコウ少尉はウィスキー・ボトルの箱に爆弾を仕込み、ヒトラーが乗る飛行機内での爆殺を試みたがこれも未遂に終わった。
 1944年6月、米英軍がノルマンディーに上陸する頃グループからはヒトラー排除の声が高まった。敗戦前に英米と講和するためには行動を起こさねばならない。暗殺実行者に選ばれたのはクラウス・フォン・シュタウフェンベルク陸軍大佐(クルーズ)。彼はアフリカ戦線で負傷し左目、右腕、左手の指2本を失っていた。彼の祖国を思う気持ちはヒトラー暗殺の必要性を確信した。そしていよいよ実行のときが来る。
 題名の「ワルキューレ」(ドイツ語発音に由来する日本語表記で英語では「バルキリー」)はヒトラーが承認した反乱鎮圧計画ワルキューレ作戦からとってある。国内で反乱が起こった際には国防軍や武装親衛隊を予備軍の統制下に置くもので、暗殺実行グループはヒトラー暗殺直後にワルキューレ作戦を発動して国内を掌握し新政府を建てる計画だった。
 史実のため結果は分かっている物語だが大物の暗殺未遂というのは背後のストーリーと計画までの経緯そして緊迫感漂う暗殺実行とでスリル満点のサスペンスの面白さを十分に引き出す。しかもクルーズ主演となればヒットはほぼ間違いなし。監督は「X│メン」のブライアン・シンガー。2時間。PG—13。(明)

写真=暗殺計画の実行者となったシュタウフェンベルク(クルーズ)
Photo©United Artists
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 No.241 2009年 1月 1日
未来に羽ばたく好奇心と創造性NYダウンタウンに開校
  Education
 配管やドラムを叩いてビートを奏で、ペンキが飛び散り、客席にはトイレットペーパーの波が押し寄せる。ニューヨークで19年、東京を含め世界的に展開するオフ・ブロードウエーショー「ブルーマン」の創立者3人が、2008年9月、幼稚園を開校した。その名は「ザ・ブルースクール」。
 決して壁が青いわけではなく、青い人がいるわけでもない。一見他の幼稚園と変わりないが、廊下の壁沿いには、ブルーマンの舞台で見るパイプが垂れ下がり、子供たちは端と端同士で話ができる。「ワンダー・ルーム」の壁は柔らかいクッション製、床からはディスコのダンスフロアを思わせる緑や赤の電光が点滅し、壁に跳ね返りながら思いっきり身体を動かし、点滅する色に応じて規則を学ぶことができる。
 毎日の日程に組み込まれているのは、「グロー・タイム」。部屋を暗くし、蛍光塗料が浮かび上がる空間で、未知の世界へ移動できる。取材時アート教室では、3・4歳児クラスが表面を模造紙で覆った大きいドラムを囲み、柄の先をガーゼで覆ったスティックをペンキに浸し、ドラムを叩きながらカラフルな模様を描き上げていた。
 「円満で持続性のある世界を築けるよう、喜びに満ち、純粋な子供たちの創造性と革新的な思考力を養う」が学園のモットー。現在ディレクターを務めるスーザン・アダムス氏は、「創造性さえあれば、明日食べる物がなくてもどうにかして生き抜くことができる」と言う。教育の基本は、第二次大戦後にイタリアのレッジョ・エミリアで発展した町をあげての芸術教育法。窓の外にはロウアー・イーストサイドの色濃い街並が広がる。父兄や付近の商店などが教育に関わることで、子供たちは社会の構造を自然に学べるという。
 ここでは、教師、父兄や講師など教育提供者も楽しみながら子供たちの教育に携わっているのが特徴。12月15日のミュージック・プログラムでは、近所のライブハウス風の倉庫のようなスタジオを借り、創立者で父兄でもあるマット・ゴールドマン氏、フィル・スタントン氏、クリス・ウィンク氏の3人による司会と、父兄がメンバーである地元のフルバンドによる演奏で、午前9時からダンス、ミュージカル紙芝居、ドラムや生オケなど、ブルーマン創立者ならではの内容のプログラムを楽しんだ。
 オーエン君(5)とバケット君(2)の父イアン・カーナーさんは、「これほど親が楽しみながら加われる所は他にはない。息子は学ぶことがとても楽しいと言っており、これは大事なことだと思う」と語り、メランダちゃん(4)の母親のリー・ブラウンさんは「学費は決して安くはないが、子供の芸術性を育てるために、何とかやりくりして続けさせたい」と言う。
 今後、毎年1学年ずつ増設していき、最終的には5年生まで学べる学園にする予定だ。詳細はwww.theblueschool.org
(浜崎都記者)

写真=ブルーマンでお馴染みの絵の具が飛び散るドラム叩きも
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