
1960年代のマンハッタンに「東西の両横綱」と称された2軒の日本食レストランがあった。
東の横綱はイースト52丁目で1963年の創業、現在も隆盛を続けるレストラン「日本」。
そして西の横綱が、当時「NYの女傑」と言われたマダム斉藤こと、斉藤もとさんの経営するレストラン「斉藤」で、こちらはウエスト52丁目にあったため、同じ52丁目の5番街をはさんで東西に、また両者が当時の日本食レストランの中では店構えから格式まで抜きん出ていたため、東西の両横綱と呼ばれたのだった。
なお「斉藤」の創業は1956年で、6番街55丁目にあった店を63年になって52丁目に移転したのだった。ついでながら、私は70年から2年間、「日本」の仕入係やアシスタントマネージャーとして働き、オーナーの倉岡信欣社長から日本食レストランの経営がいかなるものかを教えて貰った。また後に独立して魚の卸商を営んでいた時には、マダム斉藤に沢山魚を買って貰ったし、後述するように迷惑をかけたりいろいろお世話になった。このように当時の日本食レストランを代表する2店と大きな関わりを持ったのは実に幸運なことであった。
さて、この西の横綱「斉藤」が火事で丸焼けになったのは69年のことだった。翌70年、「斉藤」は2度目の移転でイースト49丁目、サックス・フィフス・アベニューの向かいにオープンした。前置きが長くなってしまったが、ここからがこの物語の始まりである。
1965年、日本の対米輸出が初めて輸入を上回った。以来日本の経済界は、「国際化」を合言葉に競うようにしてアメリカに進出した。NYにも日本企業進出の波が押し寄せ、また同時に日本食レストランも続々と進出した。
70年、「斉藤」が再開した年に、NYの日本食レストランの数は50〜60店であった。それが74年になると150軒と3倍にもなっていた。この74年、48丁目界隈には「日本」や「斉藤」をしのぐ豪華な大型店が開業している。2月には48丁目に「新橋」が、そして5月にはウォルドルフ・アストリア・ホテルの44丁目側に「稲菊」がオープンしたのである。特にこの「稲菊」の外装は日本の趣を模して白壁に石垣、入口は鋲を打った扉の巨大な門で人目を引いたが、「城」という点ではやはりこの年の11月にウォール街の近くにオープンした「江戸ガーデン」が、ビル全体を城の形にして、あたりの超高層ビルの谷間で異彩を放った。
74年はまた日本からラーメンの大チェーン「ドサンコ」が進出してきた年で、マディソン街48丁目にアメリカ1号店を開いた。チェーン総帥の青池保社長が自ら長期出張してきて、毎年店頭で餃子を包む実演をしていた。最盛期にはマンハッタンに11店舗、フィラデルフィアに1店舗と、計12店を展開した。現在NYはラーメンブームと言われているが、これは第2次で、第1次はこのドサンコが巻き起したものである。
確かこの74年の末、(もしかしたら75年初めかもしれない)「斉藤」がまたまた移転した。今度の店は1番街46丁目、国連のすぐ前である。もともとマダム斉藤はこの国連前の店で、国連にやってくる賓客を相手にしようというのが心づもりだったようで、44丁目の店はそこに移転するまでの仮営業と思っていたフシがある。この開店披露のパーティーは2日に分けて行われるというそれは豪華なもので、この新店のために大阪の「つるや」から招かれた今中さんが腕をふるった。私も魚を届けがてらパーティーに出席して今中さんの御馳走を頂いたのだが、この日がいつだったかを思い出せないのは申し訳ない。
そして75年、私の「竹寿司」が開店した。場所は48丁目、もと「斉藤」とはちょうど背中合わせになる。
NY最初の「すし専門店」だった。もちろんほかの日本食レストランもすしを出していたが、メニューが「すし」だけという店はなかった。これは当時NY一、二とうたわれたすしの板前、上津さんの協力を得たことが大きい。上津さんもマダム斉藤に招かれて、49丁目時代の「斉藤」で評判を得ていたが、「斉藤」との契約が終ったときだったので、私の店で働いてくれることになったのだ。
この年には47丁目に「淀」がオープンした。阿部さんと三屋さんの共同経営だったが、三屋さんは85年に独立して46丁目に「浪花」を開店している。
76年には「竹寿司」の並びにやはりすしを主体とする「初花」がオープンした。競合するかと思ったら、このあたりに来れば美味しいすしが食べられると、お互いに繁盛した。
その「初花」の隣に、私が2店目になるカウンター割烹の「綱元」をオープンしたのもこの年だった。あの「つるや」出身の今中さんがマダム斉藤とケンカしたとかで店を辞めていたのを幸い、私がこの店に引っ張ったのだ。にもかかわらず、マダム斉藤は「綱元」の開店に当り、お祝いだと言って49丁目時代に使っていた、それは立派な椅子を10数脚贈ってくれた。ゆったりと座れるのでカウンター席にはピッタリで大変重宝した。上津さんにしろ、今中さんにしろ、マダムには何の断りもなくうちの店で働いてもらうことになったのだが、マダムからこのことに関して一切いやみなどは言われなかった。
当時日本領事館は48丁目の「新橋」と同じビルにあった。それもあってこの48丁目には日本人が集まるようになったのだが、ここに目をつけたのが「サクラ商事」の社長、満仲恒子さん、通称ネコさんで、ちょうど「竹寿司」と「初花」の間のビルの2階にギフトショップをオープンした。これも76年のことであるが、目論見どおり大はやりした。
「ウチが今あるのは、竹寿司さんのお陰よ」と、まあ社交辞令だがネコさんは嬉しいことを言ってくれる。そんなわけでネコさんとはずっと親しくしているのだが、最近面白い話を聞かせてくれた。「あの当時、私はキッシンジャーと話しをしたことがあるのよ」。
というのは、同じ階のサクラ商事の向かいに理容店があって、ここにキッシンジャーがお忍びで調髪にやって来たというのだ。もちろんキッシンジャーの本拠地はワシントンだが、サットン・プレイスにアパートか何かを持っていて、国連に出席するときはここに泊り、お気に入りのバーバーに通ったというわけである。護衛が1人ついていたが、彼は店の外で待っていた。で、ネコさんが、護衛のつくような人は一体誰だろうと思っていたら、キッシンジャーが出てきた。以来彼と言葉を交わすようになったのだそうである。
さて翌77年、私は3店目の「車すし」を開いた。これは上津さんとの共同経営で、場所は48丁目の「ドサンコ」の2階。「竹寿司」からは近かったが、「竹寿司」は大衆路線、「車すし」は高級路線という方式をとったので、先の「初花」と同様、競合することはなかった。そればかりか、ワンブロックの中にすし屋が3軒並んだため、ますます人が集まるようになった。サクラ商事も儲かったはずである。
ところが81年になって、後年ネコさんが「今考えても口惜しいわよ」と言う出来事が起った。
「初花」の隣のビル、つまりサクラ商事が入っているビルから「竹寿司」のビルにかけて、さらに49丁目側も同じ範囲にある数棟のビルを取り壊し、48丁目と49丁目にまたがる巨大なビルを建てる計画が持ち上がったのである。テキサスの石田氏が新ビルのオーナーだという。私はこの情報をオカダ・インターナショナルの岡田社長から得ていたのだが、ネコさんは知らなかったらしい。
「ともかく何がなんだかわからず、雀の涙ほどの立退料を貰って追い出されたのよ」。
こういうことだ。新ビルのオーナーは、テナントのいない空ビルなら高く買ってくれるが、テナントが居座っているビルだと安く叩かれる。それは今度はビルを買った人が居座りを追い出すのに手を焼くからだ。
「ウチのビルの大家は、われわれテナントを全部追い出してたんまり儲けたはずよ。それを知っていたら居座ってやったのに。まったくあの大家ときたら儲けを一人占めして本当に口惜しいったらありゃしない。それにひきかえ、オタクは随分大金を得たって噂があるけど」とネコさん。
私の方は最初ビルの大家は20万ドルで出てくれと言ってきた。だが移転して新しいレストランを作るにはこの位の金ではとても無理なので即座に断った。すると25万ドルになったがこれも断った。第一、リースがまだ8年近くも残っているのだ。このリースは大家が変わっても生き続ける。結局大家は「竹寿司」を残したまま、ビルを新ビルのオーナーに売ってしまった。それで今度は新ビルの弁護士がやって来た。「一体いくら払えば立退いて貰えるんですか?」。
もし「竹寿司」が立退きを承知しなければ、新ビルのオーナーは工事中の休業補償を払わなければならないし、新ビルに旧家賃のまま入居させねばならない。これは生半可な費用ではない。何度かの交渉の末、最終的な結論が出た。「ネットで100万ドル。すなわちリースの売却益の税金を30万ドルとして、税額130万ドルを支払う」
で、サクラ商事はイースト44丁目のビル3階に移り、「竹寿司」はこのサクラ商事から近いヴァンダービルト街の45丁目に移った。なおこの新居に100万ドルは使いきれなかったので、残った金で「ワシントン竹寿司」を作った。
われわれが去った跡は、「タワー49」という高層ビルに生れ変わった。1階は48丁目から49丁目に通り抜けられるようになっている。
ところでこの「タワー49」は後に日本人と深い関わりを持つことになる。
86年、愛知県にある加藤化学という会社がこのビルを買い取ったのである。同じ愛知県のトヨタ同様、質実を旨とするようで、加藤化学はこれをあまり宣伝しないため、知っている人は少ないようだ。
そして後述するが、新生「新橋」がこのビルの1階に入居している。
「タワー49」が加藤化学の所有となった翌年の87年、49丁目のこのビルの前に日本から「寿司田」が進出してきて1号店を開いた。
「寿司田」はやがてウエスト49丁目に2号店のロックフェラー店を開くが、ここはかつてドサンコの支店があったところだ。青池社長が48丁目本店の2階の「車すし」の隆盛ぶりを見て「自分もすしを」と、日本から「陣屋」というすし屋をよび、ラーメン店に併設していた。
90年代に入ると、94年に47丁目の「淀」の隣に「かつ浜」がオープンした。これは89年にウエスト55丁目にラーメンの「めんちゃんこ亭」を開業したヨネハマグループの新業態の店である。しかしながらヨネハマグループは05年の末に、NYのグループ5店を松屋フーズに譲渡してNYからは撤退した。それで現在「かつ浜」は松屋フーズの傘下に入っているが、店名はそのままで営業を続けている。
96年になって、上津さんの「車すし」がこの「かつ浜」の隣に帰って来た。上津さんは84年に48丁目のドサンコの2階から独立してウエスト56丁目に今度は単独で自分の店を開いていたのだ。それがかつての古巣の近くに移転してきたので「帰って来た」と言ったわけだが、06年にはここで「創業30周年」のお祝いをしている。
時代はいよいよ「新世紀」となる。その幕開けの2000年、老舗「新橋」が店を閉じた(ついでながら「ヴァンダービルト竹寿司」もこの年にクローズした)。
で、「新橋」のあとにオープンしたのが「HARU」である。鉄板焼きで大成功を収めたベニハナがいよいよすし業界にも乗り出したのだが、アムステルダム街にあった「HARU」をそのまま居抜きで買い取るやすぐさまチェーン展開を図り、この48丁目の「パーク店」は3号店になる。このすしチェーンもまた大当り、08年早々にはウォール街7号店をオープンした。
が、総帥ロッキー青木さんが08年7月、68歳でこの世を去った。
「本当に気のやさしいいい人だったわよ。日系人会の寄付を頼みに行くと、いつでも気軽に引き受けてくれて、毎回それは多額のお金を寄付してくれたわ。偲ぶ会には私も出席したけど、普通日本人のそういう会は日本人ばかりでしょ。でもロッキーさんの時は7割方がアメリカ人だったのよ。やはりロッキーさんは日本人の枠をこえて活躍した人なのよ。惜しい人をなくしたわね」とネコさんがしみじみ語る。
書き遅れたが、マダム斉藤は国連前の「斉藤」を手放して日本に戻り、麹町にもっていた料亭「さいとう」の経営に当たったが、89年83才の生涯を閉じている。
さて「新橋」のあとは「HARU」になったが、その「新橋」が07年になって復活した。場所が何とかつての「竹寿司」やサクラ商事があった「タワー49」である。そしてこの新店の指揮をとるのが、かつての「新橋」の女将、細田婦美子さんの長男の友成社長だ。「淀」も最近店を閉めた。が、阿部社長の息子さんが44丁目のサクラ商事の隣のビルで、「梓」を経営している。
マンハッタンの日本食レストランもいよいよ2代目の時代になったのだ(いろいろ昔話を聞かせてくれたネコさんに感謝します)。
松本紘宇 =まつもと・ひろたか=1942年東京生まれ。東京大学農学部卒業後、サッポロビールに勤務。69年退社後ニューヨークに渡り、レストランの仕入れ魚卸商などに従事、75年「竹寿司」を開店。現在ベルギー竹寿司を経営するかたわら食文化研究家として世界各地を取材している。著書に『ニューヨーク竹寿司物語』(朝日新聞社刊)など多数。